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血肉の匂い

ブッシュに掛けた罠に昨日ポッサムが二頭かかった。
最近はポッサムファーを作ってみようプロジェクトで生徒と一緒に毛皮なめし作業を行っている。
ここの学校の先生は女性が多く、罠にかかっているポッサムを見て眉をひそめたり、それらから毛皮をとってはなめしたり、肉を鶏にあげたりしている様子はちょっとここでは異風な感じがするが、そんなことは構わずに淡々とポッサムに向き合う。

子どもたちの食いつきも素晴らしく、ポッサムを通じて「生きる」ことについてちょっとでも一緒に感じ、考えられたら良いなと思っている。


それはちょうど、僕たちが鳥取で鶏を飼い、折に触れてそれらを潰して食べていた行いと通じるものがある。
そんなことはせずに、スーパーに行って鶏肉を買うほうがよっぽど楽。ポッサムもただ穴を掘って埋めてしまう方がよっぽど楽。

ポッサムが罠にかかっている姿を見るのも初めてだったという先生が、出来たら一緒に皮なめし作業をしたいと言ってくれたりもする。
そんな大事に思っている事の共有が出来た時はなんだか嬉しい気持ちになったりする。

そんな気持ちの交換がどれくらい出来るかだなぁとも思う。

僕は東京生まれで「きれい」な環境で大きくなった。
獣の血と肉の匂いを初めて意識したのはいつだっただろうか。
大学生で初めて中国へバックパッカーしたときの敦煌の市場だっただろうか。
とにかく大学生時代にバックパックを背負って訪れた「途上国」と言われる国々の市場には動物の生肉が店頭に置かれ売り買いされていた。
そこで感じる血肉の匂いというのは、「死」というものを遠ざける社会には縁遠いものだと思う。
チベットで人が死んだ際にハゲタカにその死体を食べてもらうという鳥葬という場で感じた匂いは、人も動物なのだなということを教えてくれた。

それは「先進国」のスーパーの様に白トレイに綺麗に包装されて商品棚に陳列されている様とは全く違う光景と匂いだ。

動物を実際に屠殺する現場に足を運んだりもした。
自分が普段口にしているお肉のその前の状況というものに興味と関心があった。
牛、ヤギ、豚が屠殺される様子を見学させてもらったり、自分で鶏や鹿を捌いたりもするようになった。

とかく生きる実感というものが希薄だったのが、自分で口にしている食べ物を自分の手の中に入れていく作業は生きる実感というものをダイレクトにそしてシンプルに感じやすい行いだと感じるようになった。

ニュージーランドで学校に隣接するブッシュで働き始めて、成り行きで生態系保全活動を生徒と一緒に行っているが、その過程でポッサム(フクロギツネ)が捕まる。
あまり、ポッサムを捕まえるという行いが学校ではレアな様で、生徒や先生や保護者などからの反響は大きい。
僕を見るとポッサムの話題になることも多いし、初対面の保護者にも「子どもから話を聞いてますよ。ポッサムを・・・。」と最近は話しかけられることが多い。

以前の記事(「こちらに来て2ヶ月が経ちました」)にも書いたが、なるべくポッサムの命と真摯に向き合いたいなと思っている。

生徒と今はポッサムファーの生産プロジェクトを進めていたり、今日のポッサムのお肉は学校で飼っている鶏にあげてみることにした。

今、学校では4羽の鶏を教室の裏のスペースで飼育している。

鶏たちは最初は戸惑った様子だったが、食べてみると気に入った様で大喜び。

何が正解かは分からないし、正解は人それぞれが持っていて良いものだとも思う。

ただ、僕に出来るのは、僕が大事だなと思うものを、そのように投げかけてみることでしかないのだと思う。

それをどの様にキャッチするかは本当にその人次第。

今チームを組んで一緒にやっている子どもたちは楽しんで、興味を持って取り組んでいる様に見えるが、どんな風にこの一緒に過ごした時間が昇華されていくのかな。

まだ不器用にドタバタと一緒に過ごしているが、そんなドタバタも振り返ってみたら良い思い出になるような、そんな時間になったら良いなと思っています。

明日は毛皮をなめし液に漬け込む予定。

ニュージーランドで今の僕たちのここでの暮らしに血と肉の匂いはあまりしないが、僕たちのチームの周りには血の肉の匂いがするときがある。

そしてそれはきっと大事な事なんだと僕は思っている。

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