にわとりをしめる
先日、泰ちゃんの幼稚園のスタッフがうちにお泊りにくるということで、家の鶏(たまごをあまり産まなくなった鶏)を捌いて鶏鍋にしていただきました。
いつも家で議論することですが、僕は「人間(生物)は他者の命を頂きながら生きていかざるを得ない」のであって、それを実感しながら(繋がりを意識しながら)なるべく生活していきたいと思ったときに、飼っている鶏を捌いて頂くことも何か1つ大事なことだと思っています。
普段自分たちが食べているもの(自分たちの体を形成するもの)がどのようなものなのかを意識しながらありたいものです。
「かわいそう」と反対する息子ですが、いざ捌くとなると、興味を持ってついてきて、その作業を一緒に行っていました。
羽根をむしりながら、手羽のところが見えた時に、「あ、この部分見たことある!これがここに、あー」なんて言いながら観察していました。
首を切って血が流れているところを見て、「ニワトリさんの血って少ないのかなぁ?」なんて疑問を漏らしていました。
お腹から出てきた卵の元を見て、「まだまだたくさんたまごあるじゃん。まだ産んだんじゃない?」なんて言っていたり。
その後、僕と図鑑やインターネットなんかを見ながら、鶏の体内血液量について調べたり、卵の出来る過程を見てみたりしました。
「かわいそう」っていう気持ちも本当だし、「命を頂いて自分が生かされる」というのも本当だと思うし、その狭間の中でどのようにバランスをとって生きていくかというのをしっかり考えて生きていきたいものです。
都市の生活はそれがあまりにも見えにくくなっていて、だからこそ命に対して、自然に対して無責任になっていってしまうのだと僕は思っています。
ま、そんな風に書いてはみるものの、日々の食事が美味しく豊かであったら毎日が楽しいと思うわけであります。
美味しい水・空気・コメ・野菜・肉・卵・魚・果物・・・
結局人間も自然界に生きる生き物ですから。
目に見える素材には安心感があります。
都会は都会で面白いですけどね。
鶏鍋美味しくいただきました。