日々の暮らし,  雑感

ニュージーランドへ

ニュージーランドへの引越しを考えているが、実は僕も妻も1度も行ったことがない。

1度も行ったことのないところへ進んで(そして真剣に)引越しを考えるというのはなんだか不思議な感じがしないでもない。
ただ、僕も妻も青年海外協力隊というものの経験者で「じゃああなたはフィリピンへ」「あなたはウガンダへ」とそれぞれ1度も行ったことのない国へ、エイッと飛び込んでそこで約2年間暮らして・・・という経験はしたことがある。
そして共通して言えるのは、「なんだかんだあったけれど振り返ってみたら良い経験だった。」ということかもしれない。

そんなニュージーランドという国だが、3月19日に成田発の航空券を予約した。
航空券を予約してみると、途端に色々な事が現実味を帯びてくる。
冬休みにIELTSのテスト(2回目)を受験し、先日NZQA(New Zealand Qualifications Authority)に自身の日本での教員免許と大学の卒業証明と成績証明を送付し、ニュージーランドでの教員免許登録に向けて動き出した。
審査に約12週間かかるらしい。
その審査にパスした後に、ニュージーランドのTecher Councilというところに必要書類(IELTSの結果や健康診断書、無犯罪歴証明書など)を提出して最終的な教員登録ということになるらしい。

ニュージーランドへ行って「仕事はどうするの?」というのがまず最初の入り口。
人に話をする時にもまず聞かれる事がそれで、「まずは学校で働きたいと思っています。」と答えると「日本人学校?」と十中八九聞かれるが「現地の学校で働きたいと思っています。」と答えると、ちょっと驚かれる。

相手のその「ちょっとした驚き」と「え?大丈夫」という感情の入り混じったリアクションを受けると、不意に自分も「え?大丈夫だろうか?」と思ったりすることもある。

ただ、自分の興味関心としては「ニュージーランドの教育」であって、「ニュージーランドの社会」にあったりするので、現地にどっぷりと浸かってみたいという欲がある。
「学校」という枠に固執することもないなとも思っていて、羊の放牧とか、アグリビジネスとかに触れると心が揺さぶられたりもする。
畢竟ヒトだなとも感じていて、これから出会っていくであろうヒトにもすごくワクワクするものがある。

今回はJob Hunterの人と移住アドバイザーの人の協力を得ての引越し準備なので2人3脚でしてくれているのも大変心強い。
今まで「自分たちで出来ることはなるべく自分たちで」というテーマで歩んできたが、子どもを授かるに連れて、段々とそのテーマも柔軟化していったように感じる。

ニュージーランドで暮らしを営むことにフォーカスした時に、就職活動やらビザの諸々の手続きなどは人の協力を仰ぐことにした。
(そもそも、(労働)ビザが無いと、子どもたちの学校も年間100万円/人かかるようで現実的ではない。ビザがあるとそこは無料。)

上手くいくか分からないが、(上手くいくこともあれば、上手くいかないこともあるだろうことは分かっているが)自分たちの決断を素直に楽しみながら、みんなで歩みを進めていきたい。

子どもたちは最近英語にも親しみを覚えてきていて、なんとなく日本にいながらも暮らしの中に英語が登場する機会が増えてきた。
ニュージーランドへ引越したらますますそれは自然と加速していくのだろう。
逆に日本語教育について今度は頭を悩まされるのかもしれない。

30年前と比べるとグローバリゼーションは進み世界は身近なものになった。30年後はますます世界は身近になるだろう。そんな時に何を考えどう行動するか、その行動の助けとなるような力がその時それぞれに少しでも備わっていたら良いなと少し思う。

年末年始に「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎)という本を読んでいた。

「なんとなく退屈だ。」のなかで、人間は自分の可能性を示される。そうハイデッガーは言う。ではその可能性とは何なのか?
 答えは驚くほど単純である。「自由だ。」とハイデッガーは答えるのだ。退屈という気分が私たちに告げ知らせていたのは、私たちが自由であると言う事実そのものである、と。
 こう言い換えてもよいだろう。私たちは退屈する。自由であるが故に退屈する。退屈するということは、自由であるということだ。
 まだ続きがある。この段階ではまだ自由は可能性にとどまっている。人間が自由であるという可能性が示されているだけである。ではそれをどう実現するか?
 ここでの答えもまた驚くほど単純だ。「決断することによってだ」というのである。
 ハイデッガーは、退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよと言っているのである。退屈はお前に自由を教えている。だから、決断せよーこれがハイデッガーの退屈論の結論である。
(p.252-253 解放と自由)

ちょっと備忘録として載せておく。
「何となく退屈」というのは忙しく何かをしていたとしても満たされない想いだったり、充足感の欠如からも感じることがあるあの「何となく退屈」な感情のことを指している。

決断することの大事さを教えられたような気がしてハッとした。
決断することによって開かれる世界、視野というのは確かに存在する。

自分の残された時間を考えたときに、「緊急性はないが重要なこと」にフォーカスしてそこになるべく時間とエネルギーを割いていきたいと思った。

そんな2023年1月18日