
world is your oyster
言われて心に残っている言葉というものがある。
その後の進路に悩んで、大学を1年間休学してイスラエルに行った時。
知り合いの大学の先生のお家に泊まらせてもらった時に、”World is your oyster”っていう言葉をかけてもらった。
その当時は意味がよく分からなかったから「どういう意味?」と訊ねると「あなたはどこにでも行ける。」「何でも出来る」というような意味だよ。と教えてもらった。
どこに行ったら良いか分からなくなってしまって、大学を休学してイスラエルに行って、そこで言われた言葉。
何となく気に入って、何となく好きになってずっと覚えていた言葉。
”World is your oyster”
今、僕は単身ニュージーランドに来ている。
この春から家族でニュージーランドに移住する為だ。
今までの仕事を辞めて、すぐにニュージーランドに渡って就活の旅、3週間。

就労ビザが無いと滞在できない。
観光ビザだと3ヶ月。延長させても最大で9ヶ月。
子ども達も現地の学校に通おうと思ったら、観光ビザで学校に通おうとすると留学生扱いになってしまって、年間で約100万円のお金がかかる。
就労ビザだとその学費が無料になる。
何とか就労ビザを取得して滞在したい。
色々と情報を集めながら、何とか方法と縁とを手繰り寄せる作業。
ニュージーランドへ移住すると決めてから出来ることを積み重ねてきた。
そして今回のビザ取得の為の就職活動の旅。
か細い線を1本1本手繰り寄せながら、何とか何とかというイメージ。
何とか手がかりを掴んでそれを足がかりにしながら暮らしをデザインしていく。
今日でニュージーランドに到着して3日目。
ラッキーな事に無事に内定をもらう。
ジョブハンターを通じて事前に送っていた僕のCV(履歴書)、それを見てもらって反応のあったところに面接に行く旅。
ロトルアという町にある小学校。
そこの校長先生、すごくお話が分かる人で、通じ合えるものを感じた。
僕が日本で活動していたオルタナティブ教育に関しても興味と関心と共感の心を持って話を聞いてくれた。
ニュージーランドでも根本的な構造や願いは一緒。
多様な子ども達がいるように、多様な育ちの場・学びの場が必要。
メンストリームの教育で8割の子ども達は適応できるかもしれないが、どうしてもそこに適応しない子ども達もいる。たくさんの選択肢が必要。
ニュージーランドカリキュラムでは個別最適化、共同学習、生徒中心の学習・・・などなど僕から見たらだいぶ進んでいるように見える環境も、それでもまだ「伝統的な」部分が残っており、どうしても先生は「ボス的」な存在。とてもフランクで優しくて高圧的なところはないけれど、それでもその場を取り仕切るファシリテーターの様な、メンターのようなそんな存在。

何が出来るか分からないけれど、一緒にチャレンジしたい!と熱く語ってくれた。
どうなるか分からない。
でも確実にこの校長先生とチャレンジをしてみたら面白そうだと思う。
それにしても本当にニュージーの学校は多様だなぁと思う。
土地柄ももちろんあるだろうけれど、ヨーロッパ系の人、アジア系の人、ミクロネシア系の人、マオリルーツの人。
その学校に日本人はいなかったけれど、本当に肌の色も違えば、見た目も違う。ルーツが違う。
そんな多様な中にいたらば、「自分は自分」「あの子はあの子」って思えやすいんじゃないかな。
日本は均質。同質。
「ふつう」って言葉はよく使われる言葉だけれど、ここにいたら「ふつうって?」って自然と思える。
町をプラプラしてても多国籍な料理。
比較的大きい町だからというのもあるのだろう。
とても感じることが多くて、そして考えさせられることが多い。
とりあえず1つ内定がもらえて良かった。
ホッとしたところで、明日からの面接も気持ち良く迎えることが出来そうです。
僕自身、幼少期親の仕事の都合でカナダに3年間滞在させてもらって、そこで現地の学校に通わせてもらった経験がある。即効性のある経験でもあり、後からじわじわと効いてくる遅効性のある経験だったとも思っていて、「ここだけじゃないどこかがある」と認識しながら生きれるかどうか、というのは生きる上で大きなアドバンテージなような気がしている。「英語が・・・」とか「プログラミングが・・・」とか「金融教育が・・・」とかいうのは表層的なスキルでしかなく、もちろんそれらも大事ではあるとは思うが、もっと深層的な部分での経験とかレジリエンスというのは大事なのだと思う。
家族での異国での暮らしというのはそれぞれにエネルギーのいる作業も往々にしてあるかとは思うが、有意義な部分もあるのだろうと期待している。
明日からも色々な出会いと気付きに期待と感謝。
どんどんとニュージーランドとニュージーランド人が好きになっていっています。

