支えられて
備忘録として
4月2日(月) 2.3日続く高熱と腹痛により泰ちゃん入院
4月6日(金) 結局原因は特定できずに元気になったということで退院
4月8日(日) 菜生ちゃん階段から落ちて救急車に運ばれる。第12胸椎圧迫骨折(全治8週間)。
4月12日(木) 楓ちゃん保育中に大きな石が上に被さり救出されるもドクターヘリで運ばれそのまま集中治療室へ。左股関節脱臼(全治3週間)。
4月13日(金) 菜生ちゃん楓ちゃん退院。久しぶりに家族が家に揃う。
怒涛の10日間でした。
その間両家のお母さん達に大変お世話になりなんとか生活させてもらっていました。
思い出すとズーンと重たい気持ちになりますが、僕たちがおじいちゃん・おばあちゃんになったときに見返して「あーこんなこともあったねぇ。あの時は大変だったねぇ。」と振り返れるようにちょっと書いておこうかと思います。
《泰ちゃん腹痛と高熱により入院》
3月30日からなんとなくお腹が痛いと訴える。
ま、それほど強く訴えるわけでもないし(最初は菜生ちゃんに訴え、僕に伝えてきたのはその翌日)ちょっと様子をみようかと見ていたけれど、次の日になってもその次の日になってもお腹が痛いという。耐えられないような激痛ではなかったが、食欲が落ち、2日目からは発熱も伴う。熱も39度台と割と高めの熱が2日続き、3日目が月曜日だったので病院を受診するとそのまま様子を見ましょうということで入院になった。点滴や抗生剤などですぐに元気になるかなと思ったが、そういうわけには行かず、しばらく入院ということに。
カンピロバクターやエルシニアなどの菌を医師は疑い、初日に便の検査を行った。
便の検査結果が出て原因がハッキリしてから退院して欲しいと言われ、検査結果が出るのに5日くらいはかかると言われ「ガーン」となったことを覚えている。
食中毒が怪しいと言われ、僕たちが普段している生活(シカや鶏を捌いて食べたり、自家養鶏から取れる卵を食したり、地下24mからの井戸水を利用していたり)という生活に対して一考を迫られる思いだった。
入院して三日ほど経つと熱も下がり元気になってきた。
入院当初から服用していた抗生剤が効いたにしては遅すぎるし、解熱直前に点滴に入れた抗生剤が効いたにしては早すぎるということだったらしいが、何はともあれ解熱して少し元気を取り戻したのは安心材料だった。
泰ちゃんは入院生活も2日ともなると早くもその生活に退屈し始め、「病院に行くって言わなければ良かった。言わなければ入院せずに済んだのに。」と悔やんでいた。
木曜日、便の結果が出た。
結果疑っていた菌その他は何も検出されなかった。
ホッとしたのと同時に、では何が原因だったのだろうという疑問も残った。
医師も結局原因が特定出来ませんでしたが、何かしらのウィルスに感染したと考えられますとのこと。
元気になったし、退院をさせて欲しいと願い出たが(金曜日に楓ちゃんの入園式があったので)、まだ電解質の値(ナトリウム)が正常範囲内に無いから入院を続けて欲しいと医師に言われる。
早くても金曜日の夕方とか言われたが、そこを何とかと懇願して金曜日の朝に退院出来た。
バタバタだったが、何とか家族全員で楓ちゃんの入園式に参加出来た。
《菜生ちゃん脊椎圧迫骨折》
6日(日)の朝
泰ちゃんの入院の事もあり、満足に花見も出来ていなかった今年の我が家。
6日は地元の河川敷で桜まつりがあるということで、そこの祭にでも行けたら良いかなぁと頭の片隅で考えながら泰ちゃんと1階のリビングで団欒(泰ちゃんはテレビを見ていた)していた朝7時15分。
今でも思い出したくない様な階段を滑り落ちる凄まじい音と階段を落ち切った後に階段の向こうにあるガラス戸にガシャーンと衝突する音。そんな音の直後に妻の「いたーい!」という叫び声と楓ちゃんの切り裂くような鳴き声が家中に響く。
一瞬で只事ではない事が分かるその音と叫び声に、隣の部屋にいた僕は駆けつける。すぐに2人で階段から滑り落ちたであろうことと、それも階段のかなり上段からであることが伺える。
妻と娘の状況、ボディチェックを済ませ、娘を抱えながら妻に「救急車呼ぶよ!」との僕の問いかけに間髪入れずに「早く呼んで!」との応え。その様子に緊迫感が一気に高まる。
未だ隣の部屋でついていたテレビを泰ちゃんに消させ、部屋から毛布を持ってきてもらい妻にかける。その間、119番通報をする。
人生で初めての119番通報。その時は娘も何やらただ事でない状況を感じ取ってか、僕の腕に静かに抱かれていた。
電話口の向こうで「火事ですか?救急ですか?」との問いかけ。
「救急です。○○に住む、○○です。ただ今妻と娘が階段から落ちました。娘は既に泣き止み大丈夫そうですが、妻が強く背中の痛みを訴えています。段々と呼吸が苦しくなってきたと言っています。」
と今の状況を伝える。
「今救急車をそちらに向かわせています。」と救急隊員。
「背中以外のどこか痛みを訴えていますか?意識はどうですか?」などの質問もあったように思う。
幸い妻の意識ははっきりしていて、そこは安心材料ではあった。
119番通報も「救急車があと5,6分で到着しますので分かりやすいところで誘導をお願い出来ますか?」との会話を最後に終えた。
妻が、「救急車で病院ってことになったらみんなではいけないから、お隣さんに助けを呼びに行って。」「野ちゃんは一緒に行かないとダメだと思うから、野ちゃんのおむつや水筒の準備もお願い。」
と冷静に指示。(こんな事を考え指示出来るということにまた少し安心感を覚えた。ただ背中はだいぶ痛そうで微動だに出来ない状況ではあった。)
息子に外に出て救急車が来たら手を振るように指示を出し、楓ちゃんが部屋で音の出るオモチャで遊んでいるのを確認し、隣へ走る。
隣で状況を説明すると、すぐに3人が駆けつけてくれた。
2階でまだ寝ていた野ちゃんを起こし、抱っこひもで抱っこをし、おむつや水筒などの準備をする。
ストレッチャーが玄関先まで入れるように、玄関先に止めていた車を脇にどかす。
(お隣さんが寒さで凍っていたフロントガラスを水をかけて溶かしてくれていた。)
そんなことをしていると間もなく救急車が到着。
救急隊3人で対応。
妻に話しかける人(状況を見て確認する人)が「感覚はありますか?」と足の先を触る。
「あります。」との妻の声が聞こえ(僕は必要書類に必要事項を記入中だった。)ホッとしたのを覚えている。
3人が妻の体が動かないようにそっと玄関先に置いてあるストレッチャーに乗せる。
ただそれだけの作業なのであるが、妻が痛がり、足を伸ばせずに玄関まで移動させるのでも不安がる様子もあった。
ストレッチャーに乗せ救急車に乗り込み、搬送先の病院を探す。
(その頃には救急車の音を聞いて近所の人も家の外に出ている姿が散見され、たまたま通りかかった近所の友人も心配そうに傍らにいてくれた。)
幸い近くの病院が受け入れオーケー(たまたま整形外科の先生が当直だった。)で病院に出発。
泰ちゃんと楓ちゃんはお隣さんでお留守番してもらった。
CT・レントゲンなどの結果、第12胸椎の圧迫骨折であることが分かる。
「全治8週間」という診断に事の重大さを感じつつも、麻痺などの後遺症の心配は無さそうとのことでホッとしたのは覚えている。
午前中いっぱい入院手続きやら準備やらで病院を往復した。
両家に報告のラインをしたら、すぐに菜生ちゃんのお父さんお母さんが来てくれ、東京から僕の母が月曜日から応援に来てくれることなった。
僕の母が5日間、その後菜生ちゃんのお母さんが1週間(1週あけてまた1週間)助けに来てくれて今があります。
お陰様でなんとか生活を続けることが出来ました。
菜生ちゃんは日曜日から入院して金曜日の夕方には退院しました。(トイレに1人で行けるようになったら退院しても良いよ。とのこと。病院にいても特別な処置はなくベッドの上で安静にしているというだけのことらしい。)
階段から落ちて4週間ほどになりますが、だいぶ元気になってきました。(1時間くらい立っているとしんどくなります。)
≪楓ちゃん保育中に大きな石が落ちてきて挟まる≫
4月11日(木)11時30分ごろ 楓ちゃん保育中に大きな石(推定200キロだそう)が滑り落ちてきて(1mくらいだろうか)下にいた楓ちゃんの上に被さるという事故が起きた。
幸い両脇に石がありその石に落ちてきた石が支えられ楓ちゃんは下敷きにならずに済んだ。保育スタッフ3人がいたが、大人3人でも持ち上がらずスタッフの1人が機転を利かせ車載工具のジャッキを使って石を持ち上げ、それでも引っ張り出すことが出来なかったので下の砂利を掘って何とか救出した。(その間5分程度だった)
救出されて抱っこしていたらウトウトしだして木陰に横にしたらしい。
間もなく救急隊が到着。
状況を確認し救急車よりもヘリコプターで運ぼうと近くの小学校の校庭に救急車で移動。
県内の病院でなく、隣県にある豊岡病院に運ばれることになった。
ヘリが飛び立つ直前(12時30分ころ)に僕もその校庭に到着。
定員の関係で僕はヘリコプターに乗ることが出来ず、「急ぎますから」とのことで楓ちゃんの顔も見ることが出来ずヘリコプターは豊岡の病院へ向けて飛び立った。
楓ちゃんの意識ははっきりしていたようで、しきりにベビーサインで「お父さん」「泰ちゃん」としていたそう。
スタッフに状況を聞き、現場も見させてもらい(その前に電話で状況の報告を受けたり、ヘリコプターのところで口頭で説明を受けたりしていたが、現場の石を見て事の重大さがはっきりと伝わってきた。)すぐに家に帰り入院セットなどをかばんに詰め込み豊岡に向けて出発(家から2時間くらい)。
その時、妻も地元の病院に入院していたので、僕の母に9か月の野ちゃんを託し、泰ちゃんの学校の送迎は友人に託し出発した。
母もまさか9か月の野ちゃんと泰ちゃんとその夜3人で過ごすことになるとは思いもよらなかった(というよりみんなが思いもよらなかったことが起きた。)だろう。
道中2時間、僕も楓ちゃんと対面することなく病院に向けて走っていたので色々なことが脳裏をよぎる。
病院まであと30キロというところで病院から連絡があった。「ダウン症であること。心室中隔欠損であること。胸の傷跡はそのときの手術のときのものであること。特にアレルギーはないという事。」を伝えた。「レントゲン・CTなどの結果、今はとりあえず左股関節の脱臼が見られる。その処置の為に眠り薬を服用させても良いか。」などのやりとりがあった。
その時に「娘の命に別状はありませんか?」と聞き「大丈夫です。」と言われひとまずホッとしたのを覚えている。
3時過ぎ病院に到着。
楓ちゃんと対面。脱臼の処置が済んだあとで、眠り薬でぐっすり眠っていた。呼びかけても起きなかった。顔・腰などに擦過傷、体中に鬱血症(赤い斑点)が出ていた。寝息をたてて寝ていた。
対面後、先生から説明を受ける。「CT・レントゲンなどの検査の結果、脳・骨・内臓に今のところ異常は見つかっていません。左股関節の脱臼がありましたので処置させてもらいました。1分もかからずにスッと処置を済ませることが出来ました。」との説明(救急)。
「状況が状況ですので1晩ICUに入院してもらうことになります。何もなければ次の日からは小児病棟に移れるかと思いますがだいたい3週間ほどの入院になるかと思います。」との説明があった(整形外科)。
あれだけの石が被さってきてよくもまあ脳・骨・内臓が無事だったと胸をなでおろした。
同伴してくれた幼稚園の園長先生にも状況を説明し、園長先生と別れICUに移動。
じきに楓ちゃんが目を覚ます。
楓ちゃんも楓ちゃんで大変なことがあったと(ドクターヘリで運ばれ、僕と対面するまで1人だった)神妙な面持ちで、しかしはっきりとした意識でサインを使って僕に話しかける。(特に取り乱して泣くというような風ではなく、冷静に色々お話出来た。)
最近よくするサインで「ちゃっしー(幼稚園スタッフ)」「さんぽ」と何度も何度もサインで伝えてきた。
左足は牽引された状態であった。
個室に移動し晩御飯が運ばれてくると食欲もあり8割ほどはモリモリ食べれた。
機嫌も良く、食欲もあり、意識もはっきりしていてホントに良かったと安心した。
歯を磨き、おむつを替えて、部屋を暗くして添い寝をしたら9時過ぎくらいには寝た。
寝たのを見計らってICUを出て(ICUは携帯の電源OFF)家庭に園に今の状況を報告。
翌日も7時前に起床。
相変わらず食欲もあり、モリモリ食べる。
3週間ほどの入院と言われていたが、残してきた子どもたちのこともあるし、出来れば地元の病院に転院したい旨を相談していたら、牽引も必要ないしベッドの上で安静にしているだけなので自宅転院も含め転院の承諾がとれて、入院24時間後にはICUを後にしてとりあえず地元の病院に転院することが出来た。
転院する際も安静に搬送する用の介護タクシーなるものがあったそうだが、それだとまた僕が車を取りに来ないといけないというようなこともあり、助手席をフラットにして安静に娘を運びますからということで、自家用車の助手席に楓ちゃんを乗せて病院を後にすることが出来た。
ちょうどお昼寝のタイミングだったので移動中の2時間はずっと眠ったまま移動できた。
午後2時過ぎ、地元の病院に到着。
そこで入院していた妻とも再会出来た。
まさかこんな形でこんな場所での再会になるとは思いも寄らなかった。
妻の背中も楓ちゃんの知らせを聞いた時(事故当時、妻の入院に搬送されるかもしれないとの連絡が妻にあった。)には痛みがなくなって病院の下まで移動出来たという。
楓ちゃんもベッドの上で安静にしているだけ、妻も自力でトイレに行ける、ということで金曜日の夜7時くらいには退院して自宅に帰ることが出来た。
これで病院との生活も一区切り。
目が回るような長い病院生活でした。
(楓ちゃんの心臓などの手術のときも長い病院生活だったが、それとはまた違ったなんと形容して良いか分からないが、「色々次々に起こり」大変だった病院生活でした。)