一時帰国
一時帰国しています。
いつも明るく朗らかな祖母が94歳で他界しました。
最期に会ったのは出国前の8月でした。
最期まで本当に頭もしっかりとしていてお喋りも上手で、このおばあちゃんの様でありたいと憧れるようなそんなおばあちゃんでした。
僕たち家族は「ニュージーランドに行ったら色々な事はあるだろうけれど3年間は帰国しない」という様な事を話し合いそんな心持ちで日本を出国しました。
様々な困難には沢山遭遇するだろうけれど、その都度「日本に帰ろうか」と考えていたら大変で、その考える時間とエネルギーをかけないというのが当初の考えでした。
今回の祖母他界の報せを受け取ったのは両親がニュージーランドに2週間遊びに来てくれて最終日まさに両親と別れたその後でした。
「ちょっとおばあちゃん最近元気無くて。」という話を両親に旅行中に聞いていたので、その報せを聞いたときには「その時が来たか」と心の中で祖母の事について考える時間となりましたが、それでもその時は帰国するという風には思っていませんでした。
出国前の8月に、「これが最期になるかもな」という思いのもと面会しました。
鳥取・ニュージーランドと離れて暮らしていても、面会やお手紙やメールや電話でお話する機会のあったおばあちゃん、いつも感謝と励ましをくれるおばあちゃんでした。
出国前に多少の不安も抱えていた中、励まし応援してくれるおばあちゃんに不意に涙が流れてしまったりもしたものです。
そんなこんななので、おばあちゃんの訃報を受け取った時も、冥福を祈りつつも、僕と泰ちゃんと野ちゃんは帰国しない意思を伝え葬儀には菜生ちゃんが代表して出席するというイメージでいました。
しかし、北海道に住む弟家族も、最初は弟だけ東京に行くのかなという感じだったのが、家族全員で東京にかけつける事になったり、ドイツに住む妹も母子3人で帰国ということではなくドイツ人の旦那さんも駆けつけてくれるということになり、そういうことならば、僕たち3人もちょうど野ちゃんも日本に帰りたがっていたし、仕事もギリギリまだ夏休みということもあって、急遽帰国することにしました。
そう決断してみると「3年間帰国しない」という約束事も何をそこまでこだわる必要があるだろうか、と思えるほど大したことでは無いように思えるようになりました。
ということで実に5ヶ月ぶりの家族の再会でした。
まさか、こんなに長い期間家族が離れ離れになるとは思ってもみなかったので本当に再会出来て嬉しかったですし、良かったなぁと思います。
野ちゃんは急遽「帰国する」という風に決めてからはウキウキが止まらない感じで「日本に帰れるなんて夢の様!」と大喜びでした。
野ちゃんはそのまま日本チームに合流して、楓ちゃんのビザが認可されたタイミングでニュージーランドに来るという風になりました。
泰ちゃんは成田空港で案内表示やアナウンスが全て日本語で「全部分かる!!」と嬉しそう。
「本当に日本で暮らしていくのだったら楽なんだけどなぁ」と。
そういったことを体感出来るということ1つとっても行って良かったなと思えます。
機内食では隣でスプーンで食べている野ちゃんに対して「俺は日本人だから箸で食べる」と言っていたり、「日本」とか「日本人」とかその外に出ることによってより鮮明に浮き彫りになるものですよね。
空港についてすぐに空港のトイレに行って「もはや日本のトイレは観光対象だよなぁ」と言っていたり。
変化が面白いものです。
泰ちゃんは5日間日本に滞在して僕と一緒にニュージーランドに戻ります。
思わず変則的な家族の形が続いていますが、一刻も早く家族6人で暮らせるように出来ることはしていきたいですし、一生懸命お祈りもしたいと思っています。
どんなラッキーでも良いから早くビザ認可されて!って思います。
帰国便の遅延があって、図らずもオークランドで1泊することになるなどのハプニングを経験しつつも、帰国して再会してすぐに家族で手を繋いでチェーン店のお寿司屋さんにお寿司を食べに行きました。
家族って良いですね。
みんなが嬉しそうで、楽しくて、そりゃあニュージーランドで6人で暮らしてみたいなと思いますが、家族6人揃っているという状態が今は何よりだなと思います。
前日から「喉が痛い。」と言っていた野ちゃん、今発熱の報告が菜生ちゃんからありました。
どうなることやら日本一時帰国。
帰国を決める前日に給与査定が終わったとの連絡が届き、めでたく日本での職務経験が考慮されて給与もアップしました。
1,2年程度は研修生みたいな感じで、ワークビザが発給されるギリギリの条件で仕事をするのかなぁなんて想定していたのでこんなに早く好待遇になったのは嬉しい誤算でした。
一時帰国に際してお金がボトルネックにならなくて良かったなと思います。
お金との向き合い方も大事ですね。