トイレの紙
途上国での生活のような、分かりやすい、なるべくシンプルな生活を紡いでいきたい。
昨日、家族で市内に出かけたときに、息子がトイレで用をたすときに、「お父さん、ちょっと来て」とトイレの外で娘と待っていた僕を呼ぶ。
「何?」とたずねると
「紙はどこに捨てたら良いの?」
とトイレの個室から聞いてきた。
我が家では、トイレの糞尿を発酵させて液肥として田畑に還元するようにしている。
その為、使用後のトイレットペーパーは別に保管し、薪ボイラーや風呂の焚きつけとして利用している。
息子にしてみたら、我が家の外にある日本のトイレは異質なものなのだ。
それはちょうど、僕たちが中国で仕切りの無い、水路にまたがって向かい合いながら用を足すトイレに直面したり、多くの国でトイレットペーパーでなく、水でお尻を洗うというトイレに直面したりするのと同じくらい異質なものなのだろう。(そこまでではないかもしれないが。)
子ども達が小さいうちは冒頭のような生活を送っていきたいと考えている我が家では、昨日の息子の何の変哲もない日本のトイレでの「?」にとても嬉しいものを感じた。
火を焚くと熱い。
その熱で暖をとったり、お風呂を沸かしたり・・・
種を播いたら野菜が育つ、その育った野菜を収穫して料理して食べる。
生きているシカを槍で突いて殺して、そのお肉を捌いて食べる。
そこに生きているシカを殺すのは可哀そうという素直な感情が身体をかけめぐる。
などなど
1つ1つの生活していく上での根本が、多重に包装されて見えにくくなっている現代日本で、なるべくそれらの包装を取り除きシンプルに生活していきたい。
そうすることによって、スーパーに売られている肉の背景にある風景であったり、仕事が見えてきたり、
ボタン1つでお湯が出てくるお風呂に触れて、そのボタンの後ろにあるものに想像が働く。
今僕たちが当たり前に感じるサービスの多くは、驚くほどシンプルな原理原則の積み重ねによって成り立っている。
ふと立ち止まってその「当たり前」に正対する姿勢は大事なことだ。
僕が子どもの頃と比べてもとても便利な世の中になってきているが、上手にその便利と折り合いをつけていきたい。
先週は1週間ほど友人宅のビーグル犬を預かった。
犬のいる生活に憧れる反面、やっぱり生き物(犬)と共に生活していくのにはそれなりの覚悟が必要だなと感じました。
後は僕の覚悟次第なのかもしれません。(妻と息子は犬を飼う事にとても前向きです。)
2件のコメント
Yosuke HASE
いつになるか・・・もっと広いところで犬も自由に闊歩できるような環境に憧れますが。
じいじ
犬か―
可愛いけど結構世話が大変なのと、赤ちゃんがすぐ出来るからちょっとねー(ーー゛)